28日(日)に横浜スタジアムで開催されたHKT48指原莉乃の卒業コンサート。その内容は様々なメディアで繰り返し報じられているため、本稿の目的はそれをお伝えすることではない。ただ、あのコンサートの裏側にどんなドラマがあり、あのセットリストにどんな意志が込められていたのかを考えたい。『活字アイドル論』『ももクロ独創録』など多くの著書を持つ元週刊プロレス記者・小島和宏氏が独自の視点でひも解く、横浜“伝説の一夜”の意味。
ついにこの日がやってきてしまった。
昨年12月に卒業を電撃発表した指原莉乃が、平成最後のコンサートでアイドル人生を全うする。
指原莉乃はある日、突然、HKT48へとやってきた。
当時のメンバーにとって、まさに「救世主」だった。先輩がいないから、なにをどうしていいのかわからず右往左往していた1期生たち。本当に先が見えな過ぎて、当時の総監督だった高橋みなみに「私たちはどうしたらいいんでしょうか?」と相談をしに行ったことがあるぐらいだ。
そこに指原莉乃がやってきた。
彼女はすべての答えを持っていた。メンバーにとって、こんなにも心強い存在はない。のちに合流する多田愛佳とともに、指原はまだ方向性が定まっていなかったHKT48の道を照らし、従来の姉妹グループとは一線を画したエンターテインメント集団へと導いてくれた。
メンバーは感謝しながらも、早い段階から覚悟も決めていた。
ある日、突然、やってきてくれたさっしーだから、いつか、HKT48からいなくなってしまうのだ、と。
1期生はもちろん、HKT48でのキャリアではほぼ同期にあたる2期生あたりまでは、常に「さっしーがいなくなったらどうしよう?」が頭の片隅にあったはずだ。
その想いはグループが大きくなるにつれ「さっしーがいなくなっても大丈夫なグループを私たちで創らなくちゃいけない」に変わり「さっしーが安心して卒業できるような状況を作ろう」へと変質していった(特にそれを強烈に意識していたのが1期生の宮脇咲良だったが、皮肉なことに彼女は横浜スタジアムのステージは上がれなかった……)。
そして、グループがどんどん大きくなっていく中で、メンバーは気づく。
誰も指原莉乃の代わりにはなれない、ということを。
先月号の『月刊エンタメ』に掲載したインタビューで、田島芽瑠は「あくまでもHKT48の“軸”はさしこちゃんが作ってくれたもの。だから『新しいHKT48』を一から創っていく必要はない」と語った。そして、卒業コンサートの舞台上では松岡はなが「いままでさっしーさんがやってきてくださったことを、みんなで分け合って、助け合って(やっていきたい)」と指原に直接、伝えた。メンバーがこういう境地にたどり着いたからこそ、指原莉乃は卒業を決意できたのかもしれない。