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UPDATE|2020/09/10

元NHKアナウンサー刈屋富士雄さんが語る、オリンピック屈指のあの名実況が生まれた裏

NHKのアナウンサー、解説委員として長年オリンピックを間近で見てきた刈屋富士雄氏


 まず前提として、荒川選手の世代にミシェル・クワンとイリーナ・スルツカヤという2大スターがいた。そのうちの一人ミシェル・クワンが大会直前に引退し、代わりにアメリカの金メダル候補としてサーシャ・コーエンが注目されていた。だから下馬評は、スルツカヤとコーエンが金メダルを争い、荒川選手が最高の力を出せたとしても、3位止まりじゃないかというのが一般的な見方だったんです。そういう前提があったうえで金メダルを獲るということは、伝え方もおのずと変わってくる。

──ただ、真剣勝負の世界に「絶対」はないですよね。

刈屋 そうなんですよ。そのときに頭に浮かんだのは長野五輪で実況したとき、絶対に金を獲ると言われていたミシェル・クワンがタラ・リピンスキーという新星に敗れたシーン。それからソルトレイクのときも「転んだとしても金メダル」と言われていたスルツカヤがサラ・ヒューズに負けた。もしオリンピックのフィギュアに女神がいるとしたら、彼女は相当な気まぐれなんでしょうね。そのとき、その瞬間に最高だと思った選手にしか金メダルを与えない。そういったイマジネーションが僕の頭の中でどんどん広がっていったんです。

──本番前から刈屋さんの中でドラマが出来上がっていた(笑)。

刈屋 「荒川選手が勝ちました。金メダルです」と事実だけを口にしても、何も伝わりませんからね。そのへんは日本のフィギュアファンの特徴も頭に入れました。日本のファンはフィギュアという競技を愛しているんですよ。「荒川静香が勝てばそれでOK」なんて考えていない。コーエンやスルツカヤも荒川選手と同様にリスペクトしているんです。だからみんなのパーフェクトな作品を見たい、その上で荒川さんが勝ってくれればという見方をするんですよ。ですから私も「4年に一回の今日に限っては、荒川選手が勝利の女神に選ばれましたよ。」って、そして同時に荒川選手のライバルたちへの敬意もニュアンスとして込められないかと、しかも短いコメントで。

 仮にあそこで「やりました、スルツカヤが転びました! これで荒川選手のメダルが近づきました!」みたいなことを口にしたら、袋叩きにされていたでしょうね。「なんという品のない実況をするんだ!」ということで。やっぱり日本は武士の時代から「やぁやぁ我こそは」なんて名乗りあい、戦いながらも相手に敬意を払う文化があるから、勝てばなんでもいいという発想にはなりづらいと私は感じているんですよ。

──そんな深い経緯があって、あの名実況が生まれたんですね。

刈屋 正直言うと、あの実況はほとんどの人には伝わらなかったと思う(笑)。だけど、コアなフィギュアのファンからは好評だったんです。短い時間の中で今言ったようなことを伝えるのは不可能だし、たしかにバックグラウンドを知らないと唐突に感じますよね。
AUTHOR

小野田 衛


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