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UPDATE|2023/10/05

死刑囚のイラスト展示に若者殺到、獄中作品から見えた秋葉原事件・加藤智大元死刑囚の心境の変遷

加藤智大元死刑囚が描いたイラスト 撮影/西邑泰和

格差・貧困問題に取り組み、メディアで積極的に発言をしている作家・雨宮処凛が、バンドやアイドルなどを愛でたり応援したりする“推し活”について深堀りするコラムシリーズ。4回目のテーマは、死刑囚と「推し活」。なぜこのようなテーマに至ったか、きっかけは2005年に始まった、死刑囚の絵画や文章が展示される「死刑囚表現展」だった。彼らは獄中の中で一体どんな作品を制作しているのか? 生でそれらの作品を見て、作家・雨宮は衝撃を受けたという(前後編の前編)。文・雨宮処凛

【写真】加藤智大ら死刑囚が描いたイラスト

「絞首刑かかって来いや/首に食い込む錆びたワイヤー/迎えられないニューイヤー/後はよろしく葬儀屋」

これは秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大が、2018年の「死刑囚表現展」に応募した「人生ファイナルラップ」の一部だ。自らの人生を幼少期から振り返るようなラップは、以下のような言葉で終わる。

「残り人生あと何周? /裁判所で決する雌雄/二度殺される死刑囚/それを喜ぶ一般大衆」

そんな加藤の死刑は、22年7月26日に執行された。享年39。あまりにも凄惨な事件から14年後のことだった。

今回取り上げるのは、死刑囚。それのどこが推し活と関係あるのか? それはおいおい判明するが、死刑囚は誰にとっても遠い存在だろう。が、そんな死刑囚はいつからか私の人生にある種の実感を持って存在するようになっていた。

最初は十数年前、ある死刑囚から文通をお願いされたこと。確定死刑囚は基本的に家族や弁護士以外と面会も文通もできないのだが、特別に許可されることもあるらしい。人づてにその枠で文通してもらえないか聞かれ、事件や当人についてまったく知らぬままOKした。

その人は、私の文章を読んだことで文通したいと思ったようだった。結局、法務省なのか拘置所長なのか、どこかの許可が下りなかったようで文通は実現しなかったものの、「死刑囚からのコンタクト」は私に大きな印象を残した。そしてそれ以降、死刑執行のニュースがあるたびに、まずはその人じゃないかどうかを確認するようになった。現時点で、彼の死刑は執行されていない。

もうひとつは、取材を続けた事件の被告が死刑囚になるケースが続いたこと。

具体的には加藤智大、そして相模原障害者施設殺傷事件の植松聖。両事件とも裁判を傍聴し、植松に至っては裁判中に面会もし、傍聴の記録は『相模原事件裁判傍聴記 「役に立ちたい」と障害者ヘイトのあいだ』にまとめた。

さらに付け加えるなら、私の物書きの「師匠」的な存在も大きい。それは作家の見沢知廉。彼は82年にスパイ粛清事件で懲役12年の判決を受け、獄中である文学賞を受賞して出所とともに作家デビュー。97年に出版した小説『調律の帝国』は三島賞候補にもなったのだが、05年、マンションから飛び降りて亡くなっている。

そんな彼の晩年は、「殺人犯」という汚名をそそぐために文学賞に固執し、その中で心身ともに「壊れて」いったようなところがあった。ちなみに彼が獄中生活で心の支えにしていたのは、永山則夫。

68年、19歳で4人を殺害し、「連続射殺魔」と言われた死刑囚だ。裁判の過程で凄まじい貧困と虐待に晒された半生が明らかになり、獄中から『無知の涙』を出版。大きな反響を呼び、小説『木橋』は新日本文学賞を受賞。20代で獄の人となり、小説家になることを目指していた見沢氏にとって、永山則夫は眩しい存在だったようである。

そんな永山則夫の死刑は97年、執行。当時、見沢さんはすでに作家として活躍していたのだが、その際の落ち込みよう、取り乱しようは見ていられないほどだった。

もちろん、死刑囚ということは殺人を犯している。しかも複数人の命を奪っている。どのような理由があれ、それは決して許されないことであることは強調しておきたい。


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