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UPDATE|2023/12/22

M-1を立ち上げたのは1人の吉本社員だった、「低迷期に聞いた漫才師たちの本音に驚いた」

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谷良一著書『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)

2001年にスタートした「M-1グランプリ」は、若手漫才師の登竜門となり、数多くの人気芸人を輩出。お笑いファンのみならず、世代を超えて高い注目を集め、今や年末の風物詩となっている。M-1グランプリを立ち上げたのは元吉本興業ホールディングス取締役の谷良一氏。著書『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)も好評の谷氏に、改めてM-1グランプリ誕生までの軌跡を振り返ってもらった(前後編の前編)。

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2001年、制作営業総務室室長だった谷氏は、“ミスター吉本”とも称される木村政雄常務の命により、低迷している漫才の復興を目指した漫才プロジェクトのリーダーを任される。

「木村常務に言われるまで、漫才を立て直そうなんて考えたこともなかったです。もちろん漫才の低迷は気になっていたし、漫才ブームで売れたコンビも人気が落ちて、劇場にもお客さんが来ないという状況も心配でした。確かに漫才も大切ですが、タレントを売ってテレビに出す、そのタレントを使って番組を作るということも大事なことですからね。ただ木村常務に漫才プロジェクトをやれと言われて、『確かにそうや。やらないとけない。それが実現できたら幸せやな』と思いました」

当時、吉本興業内には漫才に力を入れようという空気は皆無だった。東京では1998年に「渋谷公園通り劇場」、1999年に「銀座7丁目劇場」が相次いで閉館。2001年に「ルミネtheよしもと」が開館するまで、東京で吉本の若手芸人が定期的に出演できる常設劇場は皆無だった。漫才の本場である大阪も事情は同じで、“笑いの殿堂”がキャッチコピーの「なんばグランド花月」も客入りはいまいち。人気若手芸人の拠点として1999年に開館した「baseよしもと」は、若い女性ファンで賑わっていたが、漫才よりもコントが主流だった。

「baseよしもとの前身『心斎橋筋2丁目劇場』は、若手芸人目当てのファンの女の子たちが詰めかけていました。毎日のように来るから、ネタを知っていて、お客さんのほうが先に次のセリフを言うなんてこともありました。若手漫才師も次から次へとネタを作っているわけじゃなかったですしね。

かつての漫才師言うたら大きな声で喋っていましたが、だんだんそうじゃなくなって、ボソボソっと喋る、“ダウンダウン風”をやる若手が多かった。それはダウンタウンと似て非なるもので、松本人志と浜田雅功だからできること。形だけ真似て立ち話風にアドリブで喋っても、2丁目劇場に来る若い女の子たちは笑いますけど、漫才として見たら全然なわけですよ。

それで劇場の支配人が漫才禁止令を出したんです。でも闇雲に漫才をするなと言ったわけじゃなかったと思うんです。お客さんは喜んでいるけど、ダラダラ喋るなと。もっと一生懸命やれということやったはずなんです。その流れもあって、baseよしもとの支配人も漫才禁止と言ってたらしくて、当時はコントをやる若手ばかりでした」

AUTHOR

猪口 貴裕


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