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UPDATE|2024/09/21

年間700杯を食べ歩く男、ラーメン官僚が語る90年代「環七ラーメンブーム」熱狂の正体と原風景

弁慶「みそらーめん」 撮影/かずあっきぃ



ちなみに、「千駄ヶ谷ホープ軒」の創業者は、1960年に赤羽で屋台を始め、1975年に千駄ヶ谷に店を構えています。創業半世紀を超える、立派な老舗ですね。

話を戻すと、だから、必ずしもすべての背脂チャッチャ系のお店が、環七沿いにあったわけではありません。当時、「らーめん香月」は恵比寿駅前に本店を構えていましたし、「弁慶」の本店は、堀切菖蒲園駅の近くにありました。ただ、環七沿いに店を出していた「なんでんかんでん」と「土佐っ子」の人気がずば抜けて高く、店舗前の違法駐車による交通渋滞を引き起こすなどの社会現象を引き起こしたので、「環七ラーメンブーム」と言われるようになったんです。

あの当時、背脂をたっぷり利かせた背脂チャッチャ系ラーメンを出す店が多かったのは、素材を巧みに使いこなし、スープ自体に濃度やコクを持たせる技術が、今ほど進んでいなかったことが、ひとつあると思います。

ですが、背脂を大量に振りかけたラーメンの人気は、ラーメンのバリエーションが増えた今でもなお、根強いものがあります。例えば、「杭州飯店」「大むら食堂」「まつや食堂」を代表格とする、背脂を大量に振りかける新潟のご当地麺「燕系背脂煮干ラーメン」は、このタイプのラーメンを出す店が、東京で人気店の一翼を担うほどですからね。手っ取り早くスープにコクを出すために背脂を用いるのは、ラーメンづくりの常道のひとつなんです。

当時のラーメン好きは、そんな背徳感が得られる味を深夜に食べられるということで、夜な夜な環七に通っていたのではないでしょうか。

構成/大泉りか

【2はこちら】90年代、環七ラーメンブームはなぜ終わったのか? 「青葉」、「くじら軒」、「麺屋武蔵」という革命

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