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UPDATE|2023/04/08

おかもとまり、“広末涼子ものまね”芸人時代を振り返る「笑いがとれないのに芸人という肩書は重荷だった」

おかもとまり 撮影/田中健児



将来は自ら好きなものを発信し、自分の好きな何かをプロデュースしてみたいという想いを持つも、その想いを叶えるための方法と力は当時中学生のおかもとは持ち合わせていない。そこで一つの考えにたどり着く。

「有名になればお金ももらえ、自分の好きなことをできるキッカケ作りもできるはず」

中学生3年生の時、雑誌をめくると「あなたの夢を応援します」と書かれたオーディションが目に飛び込む。文言に惹かれるように受け見事合格。千葉のテレビ番組発のアイドルとして、芸能活動のスタートを切ることに。

会社の寮に泊まりこみながら、夢を追い求める生活が始まる。想像していた以上に芸能界は過酷であり“変”な場所だった。

「急に泥に落されたり、ドッキリをしかけられたり。男性30人に囲まれてどこまで臭いに耐えられるか?とか……もう、わけがわからない!としか言えない不思議な体験が毎週のように続くんですよ、そのたびに『私、芸能人の仕事をしているんだ!』と思っていました。田舎から出てきた10代の女の子としてはよく頑張ったと思います(笑)」

約2年にわたる活動を経て、次第に夢が大きく膨らむ。その夢のさらなる発展を求め、「真面目で古風な社風」との評判を聞き、憧れの太田光代と爆笑問題がかつて所属していた太田プロを新天地に選ぶ。事務所には自ら履歴書を持ち込み、売り込みをかけた。だが、晴れて入所するも、当時の太田プロには、おかもとの立ち位置にキレイに収まる部門がなかった。

「この頃の自分の強みは、そこそこ可愛くて、そこそこモノマネができるという点で、合う部門がなかったんです。宙に浮く形で、この子は女優になりたいのか?それともお笑いなのか?と、事務所内で話し合いがなされたんです。私は演技経験ゼロなので女優はできない。モノマネならちょっとできますということで、そこからものまねのオーディション、一方でアイドルオーディションなどに通う日々でした」

結果が出ず悩む日々。そんな折、『とんねるずのみなさんのおかげでした』の人気企画『細かすぎて伝わらないモノマネ選手権』のオーディションに参加する。この経験と、事務所の先輩の一言がおかもとの人生を大きく変えることに。

CREDIT

取材・文/田口俊輔 撮影/田中健児


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