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UPDATE|2023/04/12

爆笑問題、バナナマン、おぎやはぎ…JUNKプロデューサーが語る「ラジオにしかできないこと」

TBSラジオ「JUNK」の統括プロデューサー宮嵜守史 撮影/西邑泰和

伊集院光、爆笑問題、バナナマンなどが曜日ごとに冠を担うTBSラジオの人気深夜番組「JUNK」の統括プロデューサー、宮嵜守史の初のエッセイ本『ラジオじゃないと届かない』(ポプラ社)が発売された。今回、極楽とんぼ、アルコ&ピース、ハライチなど、数々のパーソナリティーとどのように関係性を築き上げてきたのか? また、ラジオにおいてのエピソードトークについて持論を聞いた(前後編の前編)。

【写真】TBSラジオ「JUNK」の統括プロデューサー宮嵜守史

──『ラジオじゃないと届かない』を拝読させていただきました。宮嵜さんにとってラジオの原体験は高校時代だったんですね。

宮嵜 正確に言うと、中学生の時に親の車に乗っているといつもTBSラジオが流れていました。群馬だったので、AMだとニッポン放送や文化放送よりTBSラジオの電波が入るんです。戸田市に送信所があるからだと、ラジオ局で働くようになって知ったんですけど(笑)。高校に入ると、複数の学校の生徒が下宿している寮に入ったんですけど、部屋にテレビをおくことができなくて、食堂で観るしかなかったんです。

工業高校のグループがチャンネル権を持っていたので、観たい番組が被らない限りは食堂にいることもなく。部屋で、パナソニックのコブラトップと呼ばれていたラジカセでラジオを聴こうと、大沢悠里さんのジングルが耳に残っていたので954にダイヤルを合わせたら『岸谷五朗の東京RADIO CLUB』が流れてきて、それからラジオを聴くようになったんです。最初は、寂しさを紛らわしたくてラジオを聴いていましたね。特に就寝前は、誰かが傍で起きてくれている感覚が心地よかったんです。

──聴いているうちに身内感は出てきましたか?

宮嵜 半年くらい聴き続けて、番組に出てくる固有名詞がわかるようになってから、そんな感覚にもなりました。ただ、自分からハガキを投稿することはなかったんです。深夜でいえば、宮川賢さんの『パックインミュージック』もよく聴いていました。リスナーからタッパーに入ったうんちが送られてきたり、ちん毛を抜いた本数でバスに乗車できるか決まるツアーがあったり、「何コレ?」ということがたくさん起きていたんです。

──大学時代やAD時代は社会性に欠けていたと書かれていますが、ディレクターになってからはパーソナリティーの方との距離が近く、信頼されているように感じます。どこかのタイミングで、いわゆるコミュ力が高くなったのでしょうか?

宮嵜 いまもコミュ力は高くないんです。世代で片付けたくありませんが、僕はいわゆるロスジェネ世代で、就職が厳しかったんです。稼業(温泉まんじゅう屋)があるので「ダメだったら実家に帰ればいいや」と思いつつ、教職採用試験は落ちて、テレビの制作会社も落ちて。諦めかけていた時に、バイトをしていたラジオのADで他の番組にも呼ばれるようになったので、ラジオがしがみつく場所になったんです。本当は内弁慶で、ひとりでいることが好きなんですけど、「パーソナリティーとしっかり対話して、ディレクターとして認めてもらえないと、この場所にいられなくなってしまう」という強迫観念が常にあって。

──だから、パーソナリティーの方と強い信頼関係を築くことができた、と。

宮嵜 信頼されることを目的にしているわけではなく、番組が終わると食い扶持がなくなってしまう。どうせなら自分の好きな番組をやりたいけど。どんどん自分が望まない番組の担当になるかもしれない。そんな想いから生まれた献身だと思います(笑)。


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