FOLLOW US

UPDATE|2022/07/26

ミスターデンジャー松永光弘が師匠・青柳政司を偲ぶ「まだ茫然…本当に大きすぎる存在」

松永光弘



「館長が大仁田さんと闘うとなったとき『東京で山田さんという人に会う』というので私もついていったんですよ。いったい誰だろう、と思っていたら、待ち合わせ場所にいたのがウォーリー山口(当時、プロレスレポーターからレフェリーまでマルチにこなしていた人物)だったんですよ。思わず『館長、この方は山田さんじゃなくて、ピラニアインタビューでおなじみの山口さんですよ!』と指摘してしまいました。

そのときに私がじつはプロレスラー志望だと知った山口さんが『チャンスだよ』と。つまり、これから旗揚げされるFMWのリングになら上がれるよ、というお誘いだったんですよ。それまで新日本、全日本、UWF、ジャパンプロレスに『元気が出るテレビ』のプロレス予備校にまで応募しながら、あと一歩のところでプロレスラーになることができなかった私にとっては『えっ、あれだけ苦労してもなれなかったプロレスラーに、こんなに簡単になることができるのか⁈』という衝撃を受けましたね」

空手家としてFMWのリングに参戦した松永は、日本初の有刺鉄線タッグデスマッチで大仁田厚と対戦(空手家が有刺鉄線デスマッチにリングに上がったのは、おそらく、これが世界初のことである)。このままデスマッチを続けていきたい、と考えていたのだが、青柳館長はすでに剛竜馬率いるパイオニア戦志への移籍を決めており、弟子である松永はその意向に従わざるを得なかった。

「館長は格闘家として大物だったので、ブッキングする側としては難しい部分もあったかもしれませんね。逆に私は無名でギャラも安く済む。だからこそ、日本初の有刺鉄線デスマッチに抜擢されたんだと思います。

本当はあのまま大仁田さんとデスマッチを続けていきたくて、ギリギリまで『FMWに残留したい!』と粘ったんですけどね。『FMWはキックボクサーの上田勝次を使って、俺を潰そうとした。やり返したいから、このまま残ります』とかいろいろ理由をつけて館長を説得したんですけど、やっぱりダメでした。

正直、パイオニア戦志に行ってもうまくいかない、と思っていたんですよ。ギャラは高かったんです。FMWでは1試合2万円だったのが、パイオニア戦志では1試合10万円になりましたから。ただ、2試合ぐらいやったところで『やっぱり違う』となってしまいましたね。じつは館長は同時進行で格闘技路線を推進しようとも考えていて、前田日明さんと闘ったドン・中矢・ニールセン、藤原組長と対戦経験のあるイサマール・チャンガニーらと対戦するプランも水面下で進んでいたんですよ」

AUTHOR

小島 和宏


RECOMMENDED おすすめの記事