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UPDATE|2022/08/20

1本のデモテープが松田聖子を生んだ、デビュー前から支えてきたプロデューサーが語る聖子との奮闘記

松田聖子1stアルバム『SQUALL』(手前右)


デビュー時、有名な話ながら国家公務員で厳格な法子の父は娘の歌手への想いを一蹴。「ミスセブンティーン・コンテスト」の本選辞退もそれゆえであった。若松氏も度々頭を下げたが首を縦に振らない。「どうやってもダメ。でもダメって言われて引き下がる訳にもいかない。ならば本人の口からも説得してもらうのがいいんじゃないかと」。

電話攻勢や福岡詣での末に、父がついに折れたのが1979年1月。この間、法子は若松氏に6度にわたって手紙をしたためていた。その時の手紙を今も若松氏は大切に持っているが、ここから『裸足の季節』でのデビューまでさらに1年がかかった。

法子の歌声に賭けた若松氏は芸能プロダクション探しを続けるとともに、福岡にスクールを開いていた平尾昌晃氏のレッスンを法子に受けてもらう。平尾氏も彼女のポテンシャルを認めてくれたが、デモテープしか知らない東京の事務所の反応はいまいち。何とか面接までこぎつけたサンミュージックでも難色を示されたが「お父さんを説得するのもあれだけかかったのだし、私もひきさがる訳にはいかない」との執念も実ってか、同社相澤社長の決断で所属がかなった。父親の許可を得てから半年近くが過ぎようとしていた。

デビュー曲の制作にあたり、若松氏は最初は筒美京平氏への依頼を考えていたが、既に超売れっ子作曲家だった同氏の都合がつかず断念したそうだ。ここで若松氏の脳裏に思い浮かんだのが小田裕一郎氏。作曲:小田裕一郎、作詞:三浦徳子(よしこ)で『裸足の季節』『青い珊瑚礁』を生み出した初期のヒット曲トリオはこうして生まれた。

「(筒美京平さんとの縁がなくて)せっかくなので新しい路線で行ってみようと思って、アメリカンポップスに精通した小田さんにお願いしようと考えましたね。小田さん・三浦さんのコンビと聖子のトリオで新しい歌謡曲の路線が開けたから、その後も多くのクリエイターと共に表現を深めていけたのかもしれない。もし僕が京平さんにこだわっていたら、それなりに売れたとは思うけど『また新しいアイドルが出てきたな』くらいで終わっていたかもしれません。洋楽のエッセンスを備えてデビューできて、小田さんのメロディーでいろいろな方に注目してもらえたのは、振り返ればいいご縁だったのかなと」

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