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UPDATE|2022/03/19

渡辺正行が振り返る芸人への道「きっかけは落研、先輩・立川志の輔さんの落語を見て衝撃を受けた」

渡辺正行



──ラサール石井さんとも、劇団の養成所で知り合ったそうですね。

渡辺 石井君も年は同じなんですけど、その養成所に1期先に入っていたので先輩になるんです。僕と小宮でコントをやっていたんですけど、石井君もお笑いが好きなので、「僕も一緒にやらせてくれないか」と。もともとお芝居の一環でコントを始めたので、グループを組むって感覚もなかったんですけど、石井君は先輩だし、「全然いいですよ」ってことでコント赤信号の原型になる活動を一緒に始めました。

石井君は劇団がとってきた芸能界の仕事として、放送作家をやっていたんです。だから台本も書けるしいいなと思っていたんですけど、結成以来、石井君が台本を書いてきたことは1度もないです(笑)。

──どうしてコントをやろうと思ったんですか?

渡辺 お芝居を勉強するには舞台に立つのが一番ですが、舞台に立つにはお金もかかります。コントだったら、どこでもできるし、自分たちのセリフも多くなる。それで3人でネタを作って、大学の文化祭でやったら、「俺ら天才じゃない?」って勘違いするぐらい、めちゃめちゃウケたんですよ。当時は、東京乾電池、つかこうへいさんの劇団、劇団東京ヴォードヴィルショーなど、いわゆる新劇で笑いを中心にした劇団がどんどん出てきていた時代だったんです。

そこに僕らも強く影響を受けていたんですが、このままお芝居を続けていても、売れるまでに10年かかっちゃうなと思って。これだけコントでウケるんだから、そっちのほうが向いているんじゃないかということで、文化祭を回ったり、自分たちから問い合わせて町のお祭りなんかにも出たりするようになって、お芝居からお笑いのほうにシフトチェンジしていきました。

そのうちお笑いの方とも知り合いになって、その縁で「道頓堀劇場」というストリップ劇場に出るようになって、改めてお笑いを勉強するようになりました。

──当時、コントをやっている劇団員は他にいたんですか?

渡辺 ほぼいなかったですね。当時、僕たちがお世話になったのは、「コント太平洋」さん。ネタも見てもらっていたんですが、こういうパイプは絶対に放しちゃいけないなと(笑)。そういう風にして、お笑いの人たちとも交流を持つようになりました。(中編へつづく)

【中編はこちら】渡辺正行が語るコント赤信号ブレイク前夜「 “漫才ブーム” で勝つために、時代の笑いを分析」
AUTHOR

猪口 貴裕


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