会場に流れたイントロに、マニアックなファンが「おぉ!」となった。それは父・田中稔のテーマ曲。一旦、音がフェードアウトすると、今度は母・府川唯未のテーマ曲が。彼女にしかできない、究極の自己紹介演出。そして最後はオリジナルのテーマ曲に乗って田中きずなはデビュー戦のリングへと向かった。
じつはこの演出、田中きずなのセルフプロデュースなのだという。家でこのプランを聞いた、というかテーマ曲使用の許諾を求められた母・府川唯未は絶句した、という。
「だって自分でデビュー戦のハードルを上げることになるじゃないですか? 私だったら絶対にできないし、考えもしないですよ。でも、あの子はそれを自分の武器にしようとしている。強いなぁ~って」
しかし、そのとき、田中きずなには異変が起きていた。
「デビュー戦限定のテーマ曲として自分で選んだんですけど、いざ曲が流れたら、プロレスラーとして偉大な父の姿が頭に浮かんで……イッキにプレッシャーと緊張が押し寄せてきたんです。私がダメな試合をしたら、父と母まで悪く言われるかもしれない。それは絶対に嫌だったので……」
だが、傍目からはそんな精神状態になっているとは、まったくわからなかった。むしろ堂々としているように見えた。このあたりは両親の姿と重ね合わせてしまう、見る側の補正なのかもしれないが、デビュー戦がセミファイナルで大丈夫か? という不安はゴングが鳴る前から消えていた。期待感と緊張感で場内の空気がひとつになっていたからだ。
新人同士の試合なので技の数は多くはない。だが基本技のエルボーで田中きずなはしっかりと魅せてくれた。腰が入って重い一撃。なにげない一発にも説得力がある。
女子プロレスラーで上手にエルボーが打てない選手は結構、多い。アイドルが始球式をやると、たいがい、肘から先だけでちょこんと投げるお嬢さん投法になってしまうが、あんな感じのフォームになってしまいがちなのだ、エルボーアタックも。
たしかに女の子が日常生活でエルボーを繰り出すことはまずないし、ほかのスポーツをやっていても、こんなモーションはなかなかない。人生で経験したことがないのだからカッコ悪くなるのは当然だ。
ところが田中きずなはデビュー戦なのに、バスーンと重い一発で対戦相手だけでなく、場内の空気すらも切り裂いてみせた。
関係者席に陣取っていた記者たちは、そのとき、みんな同じことを考えていた。
「この子、めちゃくちゃプロレスが好きで、めちゃくちゃ試合を見てきてるな!」
親から受け継いだDNAではなく、自分の「好き」な気持ちが形になっている。プロレスを好きになって10年。その蓄積が一発のエルボーにすべて乗っかっていたのだ。そりゃ、重たいに決まっている。
だが、それだけでなんとかなるほど、プロレスは甘くはないのである。
【後編はこちら】府川唯未&田中稔の娘・田中きずなが紡ぐ、プロレスならではの30年越しの運命の連鎖